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Category ID | allusion |
Superordiantes | |
Synonyms | 隠引法 |
著名な原表現をそのまま引用するのではなく、それを連想する契機となるような言語表現を用意することにより、表面上の意味がひととおり通るようにしながら、同時にその裏に別の映像をフラッシュのように流す修辞技法。
暗示引用 (allusion) は、聞き手や読み手にとって既知と見なされた、故事・文章・演説・歴史的事件・ニュース・劇の台詞・慣用句などへ暗黙裡に言及する表現の手法である (菅野 2003) 。
例えば、朝日新聞の1993年6月24日のコラム「素粒子」には「吾が輩は新生党である。反省はまだない。過去をどう清算したらいいのか頓と見当がつかぬ。」とあるが、これは夏目漱石の『吾輩は猫である』の暗示引用である (中村 2007) 。
暗示引用は、以下の3つの特徴によって定義される。すなわち、暗示引用では
2024/01/28 16:56 | Tetsuta Komatsubara | |
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暗示引用は、なんらかの歴史的、神話的、文学的事実の引用である(ガリペリン 1978)。野内 (1998, 2002) によれば、フォンタニエは引喩を「歴史的」「神話的」「道徳的=精神的」「字義的」の四種に分類している。暗示引用の背景となる知識としては、諺、演説、文学など、既知の言語表現であることが多いが、時事、社会、歴史などに関する一般的な言説が対象となることもある。具体的には、以下のような事柄が暗示引用の対象となる。
以下に、いくつか具体例を挙げる。
暗示引用は「表裏の二重性に気づくだけの予備知識や教養や常識などをそなえた読者を得て、はじめてその伝達効果が発揮できる。一般読者を想定した文章の場合、文面に透かしとして潜ませることばは、だれでも知っている事柄、あるいは、世の中に広く知られた作品の有名ない節である必要がある」 (中村 2007) 。逆に、あまり知られていない事柄を前提とした暗示引用は「クローズド・サークルにおける高級な遊戯」 (野崎 2002) ともいえるものになり、暗示引用される事柄に親しんでいる「共同体」に相手が所属していることを前提とした表現になる。暗示引用がどこまで通用するかは、相手が常識としている事柄によって変わる。常識が多様化すれば、同じ時代であっても通じにくくなる。例えば「共通の教養が期待されていた中世の知的階級における『本歌取り』は、映像の二重性それ自体がその一首の趣向として文学的価値を生み出したが、今ではそのような期待は薄い (中村 2007) と言えるだろう。
暗示引用は「多くの場合何かに言及していることが文面に明示されていないものをいう」 (市川 1940) 。つまり、その表現が何かの引用であることは、注釈されないことが多い。他方で、「引用であることを示すだけで,その出所などを特にことわらないレベルで他の言を引く」 (中村 2007) ことも暗示引用に含まれる。引用であることは分かるが、何を典拠としているかは明示されないという場合である。
つまり、暗示引用の「暗示」には次の2つの意味がある。第1に、引用していることを明示しないという意味、第2に、引用の典拠を明示しないという意味である。典型的な暗示引用は、この2つの両方の意味で暗示的である。
暗示引用は「改行や引用符などによって引用範囲を限定していないだけでなく、それが引用であるということさえ示さず、原作の題もその作者の名も伏せてあり、まったく引用という形式をふんでいないが、暗示することで実質的に引用と似た表現効果をあげる」 (中村 2007) 。
昔から知られている古典の中の章句や有名人の言葉は、歴史の淘汰に耐えてきたという意味で、それだけ多くの人が認めてきた言葉である。そのため「名文句を文章や手紙に引用したり会話の中にまぜこんだりすると、いかにも高い教養がありそうに見える」 (平井 2003) 。
しかし、物知りぶって特殊な本から引用すると、読み手にわからなかったり、読み手の反感をまねいたりすることにもつながる」 (平井 2003) 。暗示引用には「文面に巧みに仕掛けたことばのヒントを手がかりに、読者が文章の奥に潜んでいるものの正体を暴く」 (中村 2007) という謎解きに似た側面があり、わかる人にはわかるといった優越感を伴う、いわば聞き手・読み手を「選別」する、隠語のような作用をもつ場合がある。
野崎 (2002) は、この暗示引用の選別化作用について、次のように述べている。「引喩(アリュージョン)の選別化作用には、もっと否定的な側面もある。何でもそうだが、衰弱して用いられた場合である。『レトリック認識』の一節を借りれば、こういうことだ。《パロディが、ことばの意味を重層化し豊富化する遊びとしてではなく、仲間うちだけの意味のくすぐりあいとして機能しはじめることがある。衰弱したパロディは、その排除的な選別作用のせいで、環境と世代を小さく区切った閉鎖的な小世間を編成し、なれあいの目くばせともなりかねない》」
暗示引用は、「有名な一節を暗に引用しながら独自の意味を加えることによって、重層的な意味をかもし出す」 (瀬戸 2002) 表現法である。「表の言述に別の作品の影をちらつかせて、文意の二重性、あるいは、読者が頭に思い浮かべる映像の二重性を誘う趣向である」 (中村 2007) とも言える。この点に関して、ガリペリン (1978) は、暗示引用は「本質的には,意味次元でのパラレリズムである」と述べている。暗示引用には2つの次元があり、「第2の次元は、第1の次元の意味をはっきり浮かび上らせるための、いわば、背景になっている。しかしこの背景は、それ独自の意味をもっている。そしてこの意味は第1の意味に対して無関係ではない」。 この暗示引用の効果について、中村 (2007) は国木田独歩『武蔵野』の表現を例として、次のように考察している。
「「突然又た野に出る。」の一文のあと、「君は其時、」と書いて行を改め、「山は暮れ野は黄昏(たそがれ)の薄(すすき)かな」と記してまた改行し、「の名句を思い出すだろう。」と展開する。そこには引用符こそ用いていないが、前後を改行してその句だけを一行にして独立させたので、引用範囲は明確に示されている。しかし、その一句の作者名は明記されていない。次行に「名句」と評価してあるので独歩自身の俳句とは考えにくい。事実、これは与謝蕪村の句である。作品『武蔵野』の発表された一九世紀末においては、一般読者にとってそれが蕪村の作であることは常識であったため、単に「名句」とするにとどめて表現のくどさを避けた、という可能性もなくはない。が、芭蕉の「古池や」の句とは違って、少なくとも現代の読者にはそこまで期待できないので、《隠引法》の例としておく。問題はこのように挿入した一句の効果である。まず、独歩が伝えようとしている武蔵野の光景が、この適切な一句を得て視覚的に具象化したことがあげられる。さらに重要なのは、そこに微妙に違う二つの映像が重なり、表現に厚みが加わった点であろう。蕪村の句がとらえた自然が、独歩のとらえた武蔵野と通い合うところがいかに大きく深くても、両者は決して同じではない。別の時に、別の場所で、別の個性がとらえた別々の風景なのだ。独歩の案内で武蔵野散策の文学的な歩を進めてきた読者は、突如として目の前に蕪村の世界が呼び出され、一瞬に消えてゆく思いがする。独歩の世界を近景とし、蕪村の世界を遠景とした二重の映像がひとしきり文学的空間をにぎわす。それはいわば濃淡二枚のタブローが文章に奥行を与える多重の表現現象である。」 (中村 2007)
私たちが使う言葉のほとんどは、既に他の人が使ったことがある言葉であるという点で、言語使用は本質的に、他者の言説の再現であるという側面をもつ。野内 (1998, 2002) によれば、「『創造』と呼びならわされた行為は実は伝統との対話」であり、「自由な『引用』」であるという。野内は、テクストはあまたのプレテクスト〔前‐テクスト=口実〕を織りあげた「引用の織物」(宮川淳)と考えるべきであるとし、このことは、以下のようなジュリア・クリステヴァの「間テクスト性」(野内では「相互テクスト性」と訳されている)の概念に通じると述べている。
「すべてのテクストは引用の寄せ木細工のように〔として〕自己を組み立てる。すべてのテクストは他のテクストの吸収・変形である。」(「語、対話、小説」)「テクストはテクスト間の相互の置換、相互テクスト性である。一つのテクスト空間のなかで、他の諸々のテクストから借用された幾多の言表が交錯し、中和する。」(ジュリア・クリステヴァ「テクスト構造化の諸問題」)
暗示引用は、この間テクスト性を十全に利用した文彩であり、他者の言葉が背景となって、自分の言葉の効果を高める表現法であると言える。
本歌取りは、暗示引用の一例である (瀬戸 2002) 。 野内 (1998, 2002) は、本歌取りと引用(借用)の関係について、次のように述べている。「たとえば、ここに一編の現代詩があるとしよう。そして、その半分ほどが他人の作品からの『借用=引用』だと仮定する。現代の読者はそこに『独創性』を見るだろうか。恐らく、作品の出来映えとは別に『盗用』を云々するにちがいない。現代の読者は借川が作品の半分を占めていれば限度を越えていると感じ、『盗作』と判定する。近代文芸の特徴は作者の個性、作品の独創性を尊重(強調)することであるから、それは当然の結果だろう。しかしながら、作品の半ばが他人の作品からの借用でもそれを可とする文芸の伝統が、確かにあったのだ。私たちが考えているのは和歌の『本歌取り』の手法だ。」 (野内 1998, 2002)
パロディは暗示引用の一例とみなすことができる。暗示引用において、引用の仕方に風刺や批判の趣向を加えると,「パロディ」になる (森 2012) 。瀬戸 (2002) は、暗示引用が「諧謔(かいぎやく)と笑いに傾けばパロディーに急接近」すると述べている。「有名な、馴染みの映画やマンガのパロディは、単に注目を集めるだけではなく、笑いを誘って共感を強める。そして得られた批判的視点から、自己のマナーに対する態度を相対的に,客観的に見直す成果を挙げるのである。」 (森 2012)
パロディの中で特定作品の画風や文体の模写に特化したものを「パスティシュ」と呼ぶこともある (森 2012) 。この意味で、パスティシュもまた暗示引用の一例である。
野内 (1998, 2002) は、デュマルセを引用しつつ、暗示引用(=引喩)について次のように述べている。「引喩の語源は『ことば遊び』を意味する。デュマルセは引喩についてこんな説明を加えている。『引喩とことば遊びはまたしても諷喩と関係がある。諷喩は一つの意味を提示し、別の意味を意味させる。そのことはまさしく引喩にも大部分のことば遊びにも見られることだ。人は歴史や寓話や風習をほのめかす。時には言葉で遊ぶ」(デュマルセ『転義論』)。このように、暗示引用は諷喩と関係している。野内はさらに、次のように述べている。「諷喩はほのめかす対象を自分で作り上げる。いわば自前のほのめかしだ。それに対して引喩はすでによく知られている対象を利用する。いわば借り物のほのめかしだ」 (野内 1998, 2002) 。
中村 (2007) は次のように、諷喩と暗示引用(=引喩)の関係を論じている。「同じくほのめかす技法である《諷喩》との関係で言えば、《諷喩》が自ら作り出したその言語表現自体をヒントにして他の何かを連想させようとするのに対して、この《引喩》は、例えば秋刀魚(さんま)が不漁だと述べた新聞記事で「秋刀魚高いか小さいか」と書き、ひそかに借用した先行表現、この例では佐藤春夫の詩『秋刀魚の歌』の中にある「秋刀魚苦いか鹽(しょ)つぱいか」という文句をほのめかすところに主眼がある。すなわち、両者には、伝達したい内容をほのめかすか、趣向をほのめかすかという、表現機構上の違いがある」
中村 (1977) では、五十嵐力を引用しつつ、次のように引用法と暗示引用(=隠引法)を関係づけている。「引用であることを明確に示したものを『引用法』と呼び、それと断らずに自分の文章の中に組みこんだものを『隠引法』と呼んで、両者を区別する場あい(五十嵐前掲書)もある」 (中村 1977)
さらに、ここでの引用法は「引用であることを明確に示したもの」であり、明示引用とも呼べるものであるが、明示引用と暗示引用の関係が、直喩と隠喩の関係と類似しているとされることがある。「引用であることを明言すれば直喩的になり、いわゆる隠引法のうち、文中に組みこまれたものは隠喩的、独立して置かれたものは諷喩的、というように、その引き方によって性質が違う。そして、引用の手つづき以外に言語表現形式上の特色がないので、直喩・隠喩・諷喩とは別に,それらと並ぶ比喩法の一種として立てる必然性は稀薄である」 (中村 1977) 。さらに、次のような指摘がある。「此の法は引用法を煎じ詰めたもので、二者の関係は隠喩対直喩の関係に似ている」 (速水 1988) 。
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