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谷崎潤一郎

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-====== 谷崎潤一郎 ====== 
  
-== Description == 
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-たにざきじゅんいちろう [1886―1965] 
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-  * [[https://​ja.wikipedia.org/​wiki/​%E8%B0%B7%E5%B4%8E%E6%BD%A4%E4%B8%80%E9%83%8E|『Wikipedia』で調べる]] 
-  * [[https://​www.aozora.gr.jp/​index_pages/​person1383.html|『青空文庫』で公開中の作品リストを見る]] 
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-小説家。明治19年7月24日東京・日本橋蠣殻(かきがら)町(現日本橋人形町)に生まれる。父は倉五郎、母は関。倉五郎は入り婿で、潤一郎の下に三男三女がある(すぐ下の弟が英文学者谷崎精二)。祖父久右衛門は一代で産をなした進取の気性の商人で、母の関は「美人絵双紙の大関にされてゐた」(『幼少時代』)という評判の美人であった。が、倉五郎は商売下手で失敗を繰り返し、幼時は大家の坊ちゃんとしてだいじに育てられながら、坂本小学校の高等科を卒業するころは、中学へも進めない状態になる。教師や伯父の配慮で、1901年(明治34)数え年16歳で府立一中(現日比谷(ひびや)高校)に入学、翌年、秀才の特典で飛び級をして3年生になる。同級に辰野隆(たつのゆたか)がいた。『学友会雑誌』に早くから作文や漢詩を発表して注目され、05年、一高英法科に入学、文芸部委員となり、『校友会雑誌』に小説『狆(ちん)の葬式』(1907)その他を発表。08年、一高英法科を卒業、「創作家にならうと云(い)ふ悲壮な覚悟をきめ」(『青春物語』)て、東京帝国大学国文科に進む。 
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-**▲文壇にデビュー** 
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-1910年(明治43)9月、小山内薫(おさないかおる)を盟主として、和辻(わつじ)哲郎、大貫晶川(おおぬきしょうせん)、後藤末雄、木村荘太(そうた)らと第二次『新思潮』を創刊。資金は、小学校時代からの親友で、著名な中華料理店偕楽(かいらく)園のひとり息子笹沼(ささぬま)源之助と、木村荘太から提供された。島崎藤村(とうそん)の『破戒』(1906)に始まる自然主義文学運動もようやく行き詰まり、反自然主義の台頭に励まされた潤一郎は、創刊号に『誕生』、10月号に『象』、11月号に『刺青(しせい)』、12月号に『麒麟(きりん)』を相次いで掲載。同誌が7号で廃刊になったあと、続いて『スバル』の同人として『少年』『幇間(ほうかん)』(ともに1911)を発表。この間、東京帝大から授業料未納のかどで退学を命ぜられる。が、その11年の11月号の『中央公論』に『秘密』が掲載され、しかも同じ11月号の『三田文学』に永井荷風が『谷崎潤一郎氏の作品』を書き、その文学の特質を激賞するに及んで、新進作家として華やかにデビューする。荷風は谷崎文学の顕著な特質として、第一に、「肉体的恐怖から生ずる神秘幽玄(ゆうげん)」、第二に「全く都会的なる事」、第三に「文章の完全なる事」をあげたが、これは谷崎文学の本質のいち早い指摘として正鵠(せいこく)を射たものといえよう。続いて発表した『悪魔』(1912)には、極端なマゾヒズムと女性の悪魔性への賛美があり、この傾向は、『恋を知る頃(ころ)』(1913)から翌年の芸術家小説『饒太郎(じょうたろう)』に至って独自の世界を築く。しかし、これが芸術至上主義的な放浪生活から生活の正常化への志向を生み、15年(大正4)、石川千代と結婚し、『お艶(つや)殺し』(1915)以下の毒婦物を相次いで書くが、立て続けに発禁になり、『神童』(1916)、『異端者の悲しみ』(1917)などの自伝的作品に血路をみいだしてゆく。これらにも、「悪」の芸術性と正当性の主張が顕著で、また、『呪(のろ)はれた戯曲』(1919)、『途上』(1920)などのスリラー的手法による妻殺しがテーマの作品には、妻千代の妹せい子との恋愛の影が揺曳(ようえい)している。 
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-**▲小田原事件** 
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-潤一郎は、1917年(大正6)に母を、19年に父を相次いで失い、神奈川県小田原(おだわら)に転居、20年から翌年にかけて大正活映株式会社の脚本部顧問となり、せい子(芸名・葉山三千子)を主演女優に映画製作を試みたりする。また、妻千代をめぐるトラブルから、親友の佐藤春夫と絶交する、いわゆる「小田原事件」の起こるのも21年中で、潤一郎が妻千代と離婚し、春夫が千代と結婚することで事件の解決をみるのは、実に10年後の30年(昭和5)中のことである。しかし、この間、23年の関東大震災をきっかけに関西に移住したことで、谷崎文学は画期的な飛躍を遂げる。『痴人の愛』(1924~25)は、震災後のアメリカ的風潮が生んだモダン・ガールの生態を描いた風俗小説として評判になり、続く『卍(まんじ)』(1928~30)は、同性の魅力のとりこになった人妻とその夫の破滅劇を、その人妻が大阪弁で告白する異色の長編として注目された。『蓼喰(たでく)ふ虫』(1928~29)は、自伝的要素の濃い「離婚待機小説」だが、すでにここに、数年後の古典主義時代の予兆としての日本回帰の志向がみられる。また、この間、上海(シャンハイ)に遊び、自殺直前の芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)といわゆる「『小説の筋』論争」を交わしたりした。 
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-**▲古典主義時代** 
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-1931年(昭和6)1月、『母を恋ふる記』(1919)以来の母性思慕の主題を深めた『吉野葛(よしのくず)』を発表。続いて9月『盲目物語』、10月から翌年11月にかけて『武州公秘話』、そして『蘆刈(あしかり)』(1932)を発表。しかし、「古典主義時代」といわれるこの期の最高傑作は、なんといっても33年の『春琴抄(しゅんきんしょう)』で、ここにみられる徹底した女性拝跪(はいき)は、そのまま根津松子(1935年結婚)への姿勢とつながるものだろう。 
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- 潤一郎は、1933年、日本美の再発見に言及した『陰翳礼讃(いんえいらいさん)』を書き、続いて、35年から、終生の仕事となった『源氏物語』の現代語訳に着手する。また、36年『猫と庄造(しょうぞう)と二人のをんな』を書き、37年には芸術院会員に推された。42年から『細雪(ささめゆき)』の執筆を始め、戦後の48年(昭和23)、大阪の船場(せんば)育ちの蒔岡(まきおか)家の四姉妹を描いたこの大作を完成、翌年、文化勲章を授与される。 
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-**▲豊饒の戦後** 
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-敗戦の年、すでに59歳であった潤一郎は、高血圧症に悩まされながらも、なお旺盛(おうせい)な執筆活動を続け、『少将滋幹(しげもと)の母』(1949~50)、『鍵(かぎ)』(1956)、『夢の浮橋』(1959)、『瘋癲(ふうてん)老人日記』(1961~62)と、積年のテーマの深化を図りながら一作ごとに新境地を示す話題作を書き続け、昭和40年7月30日、腎(じん)不全から心不全を併発し、神奈川県湯河原(ゆがわら)の新居で死去した。京都市左京区鹿(しし)ヶ谷(たに)法然院に葬られている。 
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-(大久保典夫「谷崎潤一郎」『日本大百科全書(ニッポニカ)』より) 
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-== Works == 
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最終更新: 2019/10/24 13:49