宮沢賢治
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宮沢賢治
Description
みやざわけんじ [1896―1933](『Wikipedia』で調べる)
詩人、童話作家、農芸化学者。農村指導者、宗教思想家。明治29年8月27日岩手県稗貫(ひえぬき)郡花巻町(現、花巻市)に、父政次郎(まさじろう)(1874―1957。質・古着商)、母イチ(1877―1963)の長男として生まれ、父祖伝来の濃密な仏教信仰のなかで育った。少年時代から植物採集やとくに鉱物採集に熱中、「石コ賢さん」とよばれる。盛岡中学校に入学、2年のころから短歌制作を開始。しだいに学業等閑視、山野跋渉(ばっしょう)や、哲学書、宗教書を耽読(たんどく)するようになった。5年のとき寮監排斥運動に加担したとして退寮させられたころから急速に成績低下するが、これには家業を継ぐことへの嫌忌なども影響していた。1914年(大正3)盛岡中学を卒業、肥厚性鼻炎手術のため入院。看護婦に恋をするが、この初恋は実ることなく終わる。この秋、島地大等(しまじたいとう)編『漢和対照 妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)』を読んで激しく感動、父から進学許可を得て心機一転受験勉強に励み、翌1915年盛岡高等農林学校農学科第二部に首席入学。高農在学中は片山正夫『化学本論』を座右の書として勉学に励む一方、短歌にも新境地を開き、学内同人誌『アザリア』や『校友会会報』に連作短歌や詩的散文を次々に発表した。 1918年、得業論文「腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値」を提出して卒業。さらに研究生として稗貫郡土性調査に従事するが、このとき肋膜炎(ろくまくえん)にかかる。この夏、『蜘蛛(くも)となめくじと狸(たぬき)』『双子(ふたご)の星』などの童話を書き始めた。1920年、田中智学(たなかちがく)の国柱会(こくちゅうかい)に入会、父にも改宗を迫るがいれられず、翌1921年1月に突如無断上京、本郷菊坂町に下宿して筆耕をしながら、布教活動等に加わり、夜は猛然と童話を多作した。しかし夏、妹病気の報に帰郷、12月から稗貫農学校(のち花巻農学校)教諭となり、以後4年余、教壇に立つ。この間、口語詩の制作を開始、地元の新聞や同人誌に詩や童話を発表し始める。1924年に詩集『春と修羅(しゅら)』、童話集『注文の多い料理店』を刊行。また、農学校生徒を指揮して自作の劇『飢餓陣営(きがじんえい)』ほかを毎年のように上演した。1926年3月で農学校を退職、下根子桜(しもねこさくら)に独居自炊して開墾、青年たちを集めて羅須地人協会(らすちじんきょうかい)をつくり、農芸化学や農民芸術論を講じたり、レコード鑑賞、合奏練習などの文化活動を開始したりするが、官憲に目をつけられ、賢治自身の病気などのために活動は挫折(ざせつ)。1931年(昭和6)ごろやや病状回復、東北砕石工場技師となって石灰の宣伝販売に奔走するが、無理がたたってふたたび病床の身となり、昭和8年9月21日に病死した。
晩年は詩や童話の旧作の推敲(すいこう)、改稿、改作に没頭、多くの文語詩を制作・清書した。没後1年で早くも三巻本の『宮沢賢治全集』(1934~1935・文圃堂(ぶんぽどう))が刊行され、実弟の清六(1904―2001)、詩人の草野心平、高村光太郎らの尽力もあって、宮沢賢治の人と作品は急速に世に知られるようになった。童話では『風の又三郎』『銀河鉄道の夜』、詩では『永訣(えいけつ)の朝』、メモ『雨ニモマケズ』などが著名である。花巻市に宮沢賢治記念館がある。
(天沢退二郎「宮沢賢治」『日本大百科全書(ニッポニカ)』より)