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幸田露伴
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- | ====== 幸田露伴 ====== | ||
- | == Description == | ||
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- | こうだろはん [1867―1947] | ||
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- | * [[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E7%94%B0%E9%9C%B2%E4%BC%B4|『Wikipedia』]]で調べる | ||
- | * [[https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person51.html|『青空文庫』で公開中の作品リスト]]を見る | ||
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- | 小説家、随筆家、考証家。本名成行(しげゆき)。別号蝸牛庵(かぎゅうあん)、雷音洞主(らいおんどうしゅ)、脱天子など。慶応(けいおう)3年7月23日(一説に26日)に江戸の下谷で、幕臣成延(しげのぶ)、母猷(ゆう)の第4子として生まれる。次兄郡司成忠(ぐんじなりただ)は海軍大尉、次弟成友(しげとも)は経済史学者、妹延子、幸子(さちこ)は音楽家として知られる。家は代々江戸城の表坊主衆を勤め、有職故実(ゆうそくこじつ)や遊芸に詳しく、露伴もまたその薫陶を受けて育った。幼少時から儒学を学び、また曲亭馬琴(ばきん)、柳亭種彦(りゅうていたねひこ)らの近世小説や中国小説を耽読(たんどく)した。1883年(明治16)に父の勧めで電信修技学校に入学、翌年卒業後の実習を経て85年北海道の余市(よいち)に電信技手として赴任した。しかし、坪内逍遙(つぼうちしょうよう)の『小説神髄』などによって新しい文学への道を示唆されたことが、露伴の運命を変えることになった。文学への夢と職業との矛盾に悩んだ露伴は、ついに2年後の87年に「よし突貫して此(この)逆境を出(い)でむ」(『突貫紀行』)との決意で余市を脱出し、東京に帰った。帰京後、父の感化で聖書を読んだが、信仰とは無縁だった。同じころ井原西鶴(さいかく)の存在を知って影響を受け、また、仏教関係の書を耽読したという。 | ||
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- | 1889年(明治22)『都の花』に処女作の短編『露団々(つゆだんだん)』を発表。ついで同年9月の『風流仏(ふうりゅうぶつ)』(『新著百種』第5号)の成功によって文名を得た。恋を失った彫刻師の精進(しょうじん)が女に似せて彫った仏像に生命を吹き込むという、恋愛の至上と芸道の神秘を仏教思想の枠組みを借りて描いた異色作で、東洋哲学を根底に据えた理想主義という露伴文学の独自性もすでにうかがえる。紅露時代として双称された尾崎紅葉(こうよう)が写実に徹し、女性描写に優れていたのに対して、露伴は一芸に生きる男の不退転の気力を雄渾(ゆうこん)な文体で描き続け、無骨な大工の創造への飽くなき執念と意地を描いた『五重塔』(1891~92)に一つの頂点を示している。鯨取りの名手の奔放な生涯を描いた『いさなとり』(1891)、多彩な登場人物の運命の転変を連環して、人生の諸相を彷彿(ほうふつ)しようとした『風流微塵蔵(みじんぞう)』(1893~95、中絶)などの野心作があり、また、90年に『日本之文華』に発表した『対髑髏(たいどくろ)』は、複式夢幻能の形式に擬して、数奇な宿命に翻弄(ほんろう)された女の煩悩(ぼんのう)と解脱(げだつ)を、虚と実のあやなす詩的空間に描いた佳作である。その後、森鴎外(おうがい)、斎藤緑雨(りょくう)らとともに、雑誌『めさまし草』(1896創刊)の創作合評(「三人冗語」「雲中語」)に参加したが、日露戦争後の自然主義中心の文壇動向を嫌悪したこともあって、文明社会の批判を意図した長編『天(そら)うつ浪(なみ)』(1903~05)の中絶後は創作の筆をほとんど廃するに至った。以後は考証、史伝、随筆の世界に新しい領域を開くことになるが、終始、文壇の主流から孤立しながら、老荘、儒仏などの東洋哲学への該博な造詣(ぞうけい)が世人の畏敬を集め続けた。その間、1895年に山室幾美子と結婚、1904年(明治37)に次女文(あや)が出生、また、08年から1年間、京都帝国大学(文科大学)の講師を務め、11年には文学博士の学位を受けている。 | ||
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- | 大正期の露伴は、『修省(しゅうせい)論』(1914)など、人生への深い洞察を秘めた修養論を書き継ぐかたわら、1919年(大正8)に『改造』に発表した『運命』で史伝の最高峰を極めた。明(みん)の正史に取材して、帝位を追われた者、追った者の半生の対照を克明にたどりながら、人為を超えた「数」(天命)の帰趨(きすう)を鮮やかに表現した傑作である。翌20年には『芭蕉(ばしょう)七部集』の評釈にも着手している。これは心血を注いだ仕事として長く持続され、死の年に至ってようやく完成された。37年(昭和12)に文化勲章を受章、ふたたび創作に意欲を燃やし、小説集『幻談』(1941)所収の4編が書かれた。なかでも『連環記』(1941)は仏教の無常観を軸に、さまざまな人間たちの生と死を描き分け、人生の奥行を彷彿する最後の傑作で、『運命』とともに、近代小説の枠組みを大きく踏み越えた自在な手法が闊達(かったつ)な語り口とあわせ注目された。東洋の哲学や文学についての幅広い教養を駆使した露伴の文学はそれ自体として、西洋化を急いだ日本の近代に対する有力な批評的存在であった。昭和22年7月30日没。 | ||
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- | (三好行雄「幸田露伴」『日本大百科全書(ニッポニカ)』より) | ||
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- | == Works == | ||
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最終更新: 2019/10/24 13:41