目次

「母親に泣きながら駆け寄って行くときと少しも変ったことはない」

Page Type Example
Example ID a1266
Author 梶井基次郎
Piece 「交尾」
Reference 『梶井基次郎』
Pages in Reference 68

Text

私の眼の下にはこのとき一匹の雄[=河鹿蛙]がいた。そして彼もやはりその合唱の波のなかに漂いながら、ある間(ま)をおいては彼の喉を震わせていたのである。私は彼の相手がどこにいるのだろうかと捜して見た。流れを距(へだ)てて一尺ばかり離れた石の蔭(かげ)におとなしく控えている一匹がいる。どうもそれらしい。しばらく見ているうちに私はそれが雄の鳴くたびに『ゲ・ゲ』と満足気な声で受け答えをするのを発見した。そのうちに雄の声はだんだん冴えて来た。ひたむきに鳴くのが私の胸へも応(こた)えるほどになって来た。しばらくすると彼はまた突然に合唱のリズムを紊(みだ)しはじめた。鳴く間がたんだん迫って来たのである。もちろん雌は「ゲ・ゲ」とうなずいている。しかしこれは声の振わないせいか雄の熱情的なのに比べて少し呑気(のんき)に見える。しかし今に何事かなくてはならない。私はその時の来るのを待っていた。すると、案の定、雄はその烈(はげ)しい鳴き方をひたと鳴きやめたと思う間に、するすると石を下りて水を渡りはじめた。このときその可憐(かれん)な風情ほど私を感動させたものはなかった。彼が水の上を雌に求め寄ってゆく、それは人間の子供が母親を見つけて甘え泣きに泣きながら駆け寄って行くときと少しも変ったことはない。「ギョ・ギョ・ギョ・ギョ」と鳴きながら泳いで行くのである。こんな一心にも可憐な求愛があるものだろうか。それには私はすっかりあてられてしまったのである。

Context Focus Standard Context
人間の子供が母親を見つけて甘え泣きに泣きながら駆け寄って行く (雄のカエルが水の上を雌に求め寄ってゆく)

Rhetoric

Semantics

Source Relation Target Pattern
1 子供 = かえる 両生類=子
2 泣く = 鳴く 鳴く=泣く

Grammar

 

Lexical Slots Conceptual Domain
A Target
B Source

 

Preceding Morpheme Following Usage
1 A 変わったことはない は-既出のものに関する判断の主題
2 B と[少しも変ったことはない] と-比較の基準
3 B [と]少し[も変ったことはない] 多少(たしょう)
4 B [と少し]も[変ったことはない] も-強調
5 B [と少しも]変っ[たことはない] 違う(ちがう)
6 B [と少しも変っ]た[ことはない] た-存続-連体形
7 B [と少しも変った]こと[はない] 事(こと)
8 B [と少しも変ったこと]は[ない] は-否定的主張
9 B [と少しも変ったことは]ない ない(ない)

Pragmatics

Category Effect
自然描写 (description of nature) 蛙の雄が雌に近づいていく様を表現する。
心理描写 (psychological-description) 感情を持たない蛙ですらも、その行動が母を慕う子供のように見えてしまうという語り手の繊細な心の在り方を反映する。
イメジャリー・イメージ (imagery) 母を慕う子供のイメージによって、蛙の行動に対する感じ方を表現する。